教育とは「自立させること」である
僕はけっこう面倒な性格をしていて、何かをするときに「定義」がどうしても気になってしまいます。あまり文系・理系の区別は好きではありませんが(ナンセンスだから)、理系の性なのかもしれません。
初めて「塾の先生」になったときも
塾の先生ってなんだ? 塾の先生の仕事ってなんだ? そもそも勉強って意味があるのか? 受験って何のためにするんだ?
なんてことが気になって仕方ありません。それらの問いに自分なりに答えを出しては、経験を積むことでまた考えが変わったり、もっと経験を積むとまた前の考えに戻ったり…。
もうほとんど哲学です。でもこの「自分哲学」をやらないと気が済まないタイプなので、これらの問いはけっこう考えてきました。ちなみに僕は自分のことを「先生」とは絶対呼ばないと決めていますが、これも自分哲学からきてます。
こういう自問自答を重ねていくと、ある問いに行き着くことに気がつきます。
教育って何?
という問いです。
この問いの答えは皆さまお持ちでしょうか?
僕はこの問いの答えとして
教育とは自立させることである
と定義しています。
この定義にしたのは確か23歳ぐらいの時だったと思います。テレビのドキュメンタリー番組のようなものを見ていて、そこでライオンのお母さんが子供に狩りを教えていました。
そりゃライオンも「教育」するよなー。 お母さんが死んでしまって、一人(一匹?一頭?)で獲物とれなかったら死ぬもんなー。
なんてことを考えていたら
そうか。これが教育の原点か。
ストンと腑に落ちたのを今でも覚えています。
なんだか頭カラッポみたいですが、僕はいまでも教育の原点はこれだと思っています。
歯に衣着せぬ言い方をしてしまえば
普通は親が先に死ぬ。そうなっても大丈夫なようにする。
これが僕の言う「自立する」の意味です。
教育者の死に備えること
と言い換えることもできると思います。学校教育も、塾の勉強も、全てはこのためにあるべきだといまだに思っています。
教育者としての死
皆さんは学生の頃は塾に通っていたでしょうか?
もし通っていたなら、そのときの先生のことをどれだけ覚えていますか?
塾を卒業(卒塾)して、塾の先生に会ったことはありますか?
僕はずっと勉強が嫌いだったので、あまり塾には通っていませんでした。
一人だけ塾の先生で「恩師」とも呼ぶべき人がいますが、その人は僕にとって「塾の先生」というよりも「もう一人のお母さん」ぐらいの人なので、あまり塾の先生という感覚はありません。
他にも塾に在籍していたことは一応ありますが
あの先生、名前なんだったっけ…?
これぐらいのもんです。もちろん卒業してから会ったことはありません。
僕の中で塾の先生というのはそれぐらいの存在です。
というより、普通こんなもんじゃないでしょうか?
もちろん小・中・高だけで12年間教育を受けるわけで、その中で劇的に人生に影響を与えてくれる先生に一人ぐらいは出会うかもしれません。自分がそうでありたいなとは願いつつも、それは生徒が決めることなので僕が勝手に名乗るわけにはいきません。
教育とは自立することであり 自立するとは教育者の死に備えることである
と僕は定義していますが、またまた面倒な悪癖が顔を出し
じゃあ「死」ってなんだ?
といよいよ本格的に面倒くさい領域に思考が入り込みます。
「死」とか語り出すと教育論に戻って来られなさそうなので、ざっくりですが
「死」とは もう会えなくなること あるいは 忘れられること
ぐらいで定義しています。ちなみに後者はワンピースに書いてました。
そうなると
生徒が塾を卒業した時点で、教育者としての自分は死ぬな。
と僕は考えています。きっと塾を卒業したら会うことはないでしょうし、大学入学直後ぐらいは覚えていてくれるとは思いますが、例えば就職して、仕事を覚えるのに手いっぱいな時期を経て一人前になっていく過程で、さすがに塾の先生が想起されることはないのではないでしょうか?
(※本当にありがたいことに卒塾しても就職しても会いに来てくれる生徒が何人もいます。ただそれは生徒の心が釈迦のように広いからであり、僕のした仕事とは無関係です。少なくとも僕はそれを前提に塾の先生の仕事をすることはできません。)
なんだか暗い話のようですが、そんなにネガティブな感情ではありません。
アインシュタインは
教育とは学校で習った全てのことを忘れてしまった後に、それでも残るもののことである
と言っています。僕もそれに倣い
生徒は塾のことは忘れる。多分僕のことも忘れる。きっと会うこともない。 それは「死」と同じ。そうなった時に生徒の中に何を残せるか?
を割と本気で、常に考えています。
社会から切り離された教育などあり得ない
思考が今度は
じゃあ生徒の中に何を残せるのか?
という問題に移ります。この問題に答えるためには
社会はどうなっているのか?また、どうなっていくのか?
をよく知る必要があります。なぜなら「社会から切り離された教育」など意味がないからです。たまに指導者で教育法や指導法についてとても良く知っている人が資本主義も経済情勢も理解しておらず、最近ではAI(特にディープラーニング)や仮想通貨もよくわからないということがあります。
はっきり言って、僕にはその人が何のために教育しているのかよくわかりません。
最終的に子供たちが生きていく場所は社会です(これからは「会社」とは限りません)。
これからどういう社会になっていって、どんな人材が活躍できるのかをよく勉強していないと、教育法の是非などわかるはずがありません。
ということで僕も社会についてよく知らねばならんと思い、社会人の方に会ったときは
〇〇さんの会社で今活躍してる人ってどんな人ですか?何か共通点ありますか? これからはどんな人が必要とされると思いますか?
と必ず聞くようにしています。その独自のアンケート調査(?)の結果、ほとんどすべての方の回答に含まれるのが
自分で考えることができる人 自分で行動することができる人 自分の意見をはっきり言うことができる人
です。ここに今のテクノロジーの発展や社会情勢も合わせて考えると、
僕が生徒に残してあげたいもの(これがテーマでした)は
自分で学ぶ力
になります。なんでこうなったかをしっかり説明するには政治や経済やテクノロジーの話が必要になるのですが、ざっくり言えば
これからはキャリアがますます多様化する。つまりみんなバラバラのことをする。 さらに社会の変化が激しく、一つの仕事が10年持たないこともザラにある。 転職は当たり前で、フリーランスやポートフォリオキャリア(いくつかの職を持つこと)も当たり前になる 頭を使う度合いが低い仕事はどんどんロボットやコンピューターに代替され、そのつど人間がする仕事は変化し続ける
こんな感じの世の中です。だから
学生のときにどんな成績だったか
はほとんど関係がないのです。むしろ本番は社会に出てからで
変化に敏感に反応し、自分に足すべきことを考え、そのための学習を考え、実行する
ということをほぼ全員がしなくてはいけません。ここで大事なのは
この仕事そろそろヤバいよ。次はこんなスキルを身につけておくといいよ。 そのためにはこの本を読んで、この講座を受講するといいよ。
なんて絶対に誰も言ってくれないということです。だってみんなキャリアがバラバラなのですから。
何を・いつ・どうやって学べば良いのかは完全に個人の問題になります。
そこで必要になるのは「自分の学びをデザインできる力」なのです。
(アカデミーの教育論① おわり)