学研新伊丹キャンパスさんとの合同企画

今回は学研新伊丹キャンパスさんとの共同企画です。

ウチの亡くなったオーナーのご縁で仲良くさせて頂き、
定期的に合同勉強会を開催しています。

塾業界の勉強会なので、学力や成績の話はもちろんするんですが、それよりも話題にのぼるのは

「生徒たちが社会に出たらどうなるのか?」

ということです。
もっと言えば

今の社会はどうなっているのか?
この先社会はどうなっていくのか?
今の生徒たちの世代はどんな傾向があるのか?

で、結局、われわれ指導者は生徒たちに何を伝えればいいのか?

という問いです。

今回の共同企画というのは、

学研新伊丹キャンパスの尾村先生、村谷先生、そして僕がこのテーマについてそれぞれ記事を書いてみよう

というものです。

世代やキャリアが異なれば、指導観も異なります。
社会がどう見えているのか。
生徒たちがどう見えているのか。

この社会で自己実現するために必要なことは何で、
指導者はそこにどう関わればいいのか?

世代とキャリアの異なる3人の指導者がこの同じテーマについて書けば、おもしろいのではないか。
そんな意図でできた企画です。

ぜひ、ご自身の世代や価値観を照らし合わせるように読んでみて下さい。

まず、僕がどんな世代か

僕は1988年生まれ。
中学からゆとり教育が始まり、学校では「個性」と「創造性」がキーワードでした。
(あとグローバル化と地球温暖化も)

中学時代にケータイが普及し、高校入学と同時にケータイを買ってもらうのが定番でした。
授業そっちのけで友達とメール。
机の下で画面を見ないでも文字が打てた当時のパカパカが忘れられず、いまだにスマホに不便を感じています。

当時は特にやりたいこともないし、得意なこともない。
勉強に意味も見いだせない。
テキトーにダラダラと、日々を消化するだけでした。

そんな日々に、別に生産性も将来性もないけども
まぁそれなりに楽しいからいっか。みたいな。

ニュースで「ゆとり教育」が取り上げられるたびに
「ホントにゆとり持って生きてやるからな?後悔するなよ文科省?」
って思いながら学生時代を過ごしていました。

当時の僕から見た社会は
希望が失われた社会です。

時代はまさに失われた20年。
経済は停滞し、少し上の就職氷河期世代は愚痴だらけ。
僕らの世代で少し失業率が改善したと思ったらリーマンショック。

どこもかしこも愚痴だらけ。
そもそも、
「勉強をがんばれ」と言ってくる大人たち、
どうやら頑張っていい大学、いい企業に入ったらしい大人たちが、
ちっとも幸せそうじゃない

IT革命や、終身雇用の崩壊なども相まって

勉強を頑張る

よい学校に入る

よい企業に入る

幸せな家庭を築く

みたいな、少し前まで当たり前に信じられていた人生モデルが崩れ始めた世代にあたると思います。

「じゃあ、勉強をがんばることに意味はあるのか?

この問いは僕にずっとついて回りました。

僕の友人たちには、それでもこのモデルに則って勉強を頑張っていた人たちもいました。

ただ僕にはどうしても、このモデルを信じ、勉強の価値を信じることはできませんでした
ニュースで見る社会。
周囲の大人。
実際に僕の目に入る事実としての情報と、世間的に語られる人生モデルがどうしても頭で結びつけられなかったからです。

17歳の自分に失望されないために

そんな人間が、いま塾をやっているのも変な話です。

塾をつくるにあたって、僕には決めていることがありました。

「17歳の自分に失望されない塾にする」
ということです。

当時の僕は、一部の指導者に失望していました。
「勉強をがんばることに意味はあるのか?」
この問いに答えてくれない指導者たちです。

「答えてくれない」は語弊がありますね。
より正確には、
「勉強することは良いことだ」という前提が崩れているかもしれないのに、その議論やコミュニケーションに応じてくれない指導者たちです。

その議論には応じないのに、「偏差値の高い大学に行くことは良いことだ」という前提で僕らの行動にやたらと干渉してくる。

当時の僕は

「あぁ、この人たちは、”生徒が勉強するのは良いことだ”という結論が決まっていて上手くそこに誘導できることを”良い指導”と呼んでるんだ。」

「コミュニケーションや相談という名目で“説得”がしたいだけなんだ。」

と感じていました。
これが当時の僕にとってはすごく悲しく、寂しく、嫌な気持ちだったことを覚えています。


というわけで、そんな指導はしない。
(これは僕が高校時代の感覚を強く残す大学生のときに起業したということも関係していると思いますが)

「勉強をがんばることに意味はあるのか?」
この問いに真正面から向き合う。
「勉強することは将来のためになる」という前提を一度捨てて、
「本当はどうなのか?」
「目の前の、一人の生徒にとってはどうなのか?」

この生徒にとって、勉強する意味とは?
を毎回ゼロからコミュニケーションし、生徒と一緒に考えるようにしています。

勉強を通して伝えたいこと

さて、この記事のテーマは

生徒の自己実現のために指導者に何ができるのか?

でした。
これは僕にとっては

「この塾で、勉強を通して何を伝えたいのか?」

と同じ意味です。

「勉強することは将来のためになる」という思い込みを一度捨てて
「勉強をがんばることに意味はあるのか?」
に対する僕なりの答えを提示しなければ、わざわざ塾なんてやってる理由がないからです。

色んな仕事をしたり、色んなコミュニティ、色んな職業の人に関わっているのも、全部このため。
本当に社会で必要されていることは何なのか?
を調べるためです。

そしてこの記事では僕なりの答えを3つ、お伝えしたいと思います。

主体性

一つ目は主体性です。

主体性というのは、自分で考え、自分で決めて、自分で行動すること。
ここで一番大事なのは、誰かに指示してもらったり、枠組みを用意してもらったりする必要がないということです。

たとえば、生成AIの登場でビジネスは大きく変わっています。
僕の周りにも、上手く使っている人と、まったく使っていない人がいます。

上手く使っているのは、たとえば知り合いのエンジニアの方。
ChatGPTのリリース直後、早々に業務に組み込んだ結果、生産性が2倍に上がったそうです。

一方で、リリースから1,2年経ってようやく、「AI講座」みたいなのに参加する人もいます。

ビジネス感覚的には、両者は勝負にすらなっていません

断っておくと、この違いはテクノロジーに詳しいかどうかではありません。

「わからないから、やってみよう」
と思う人と
「わからないから、やらない」
と思う人の差です。

「わからないから、やらない」の人は、
わからせてくれる何か(講座とか)
が表れるまで動けません。

社会の変化は年々速くなります。
例えばいま、どこかの専門学校に入学したとして、そこで習う技能で一生食っていくなんて多分不可能です。

これは専門学校を否定したいわけではなく(むしろ僕は好きです)、
どこに進学しようとも、自分で新しいことを学ぶ姿勢が必要ですよ、ということです。

主体性と言いましたが、ここには
失敗したり、損をしたりすることを気にしないメンタリティ
とか
行動力
みたいなものも含まれています。

社会性

主体性の大切さをわかってもらうため、ウチの塾では
・授業内容は生徒が自由に決めて良い
・指示や宿題は一切出さず、計画もやるべきことも生徒が決める

僕は生徒が決めたことに専門的なアドバイスを加えたり、実行をサポートしたりする
という一風変わったスタイルでやっています。

こう書くと随分と自由放任なイメージになるかもしれませんが、
僕は以外と厳しいところには厳しいです。

それが礼儀やマナー、振る舞い的なところ。
つまり社会性です。

例えばウチには自慢の特注壁面本棚があり、
そこにたくさんの教材や文具などを置いていて、
ちゃんと綺麗にディスプレイしています。
生徒はそれらを自由に使っていいことになっています。

使うのは自由に使っていいんですが、元あった場所に、元あったように綺麗になおさないと僕はキレます

「君のものじゃないから」
「君の家じゃないから」

先ほど言った通り、僕は自由に主体的に振る舞えるべきだと思っています。
でもそうすると、どこかで別の誰かの自由や主体性にぶつかります。

そこでちゃんと相手をリスペクトし、コミュニケーションを取り、折り合っていく力。
つまり社会性も同じくらい大事なことです。

他者と生きていく中では、自分にとってはどうでもいいことでも、相手が大事にしていることは大事にしないといけない場面もあります(人の家とか)。

他人のことをよく観察して、自分をコントロールして、社会的なふるまいができること。

モノをなおすのはさすがに小学生の例ですが、
中学生には、自責と他責の概念を教えたり。
高校生には、もう少し技術的に そのコミュニケーションの取り方だと相手にどう映るか、もっと上手くやるにはどうすればいいか なんて話をすることもあります。

こういった社会性も、うちで学んでほしいことのひとつです。

没頭する力

最後は、没頭する力です。

集中力のようなものなんですが、あえてそう言わなかったのは理由があります。

「ゲームなら集中できるんです」

と言う生徒がいます。
ちょっと冷たい言い方をすれば、
そりゃ、そう。
です。

だってそういうふうに作られてるから。

スマホゲームは「ラクに」「達成感が得られる」ようにできています。
ラクなのに、快感は得られる。
そういうものを人間の脳は好みます。
いわば本能的な部分に働きかけて、惰性で続けられるようになっています。

で、僕が言っている集中ってそういうことではないので、あえて没頭する力と書きました。

この没頭とは、スマホゲームのようにラクで、仕組まれた集中ではありません。
好きで好きで仕方なくて、
あるいは勝ちたくて、上手くなりたくて、もっと良いものを作りたくて、
辛いし苦しいし面倒くさいのに、でも辞められないもののことです。

勉強でもスポーツでも音楽でも、そして仕事でも、没頭できる人は強いです。

自分に必要な努力や、それに伴う痛みを、躊躇なく引き受けることができます。

これは「好き嫌い」とは別の話だと思います。

例えば勉強が嫌いでも、没頭する力がある人は勉強に没頭できます。

「この1問が解けるようにならないと気が済まない」
「このリストを覚えきらないと気が済まない」

嫌いなものでも、一度手をつけたら何かを達成するまで引かない、そういう強さがあります。

逆に没頭する力がない人は、好きなものに対しても中途半端になってしまいます。

「なんとなく絵が好きだから絵の道に進んでみたけど、いつも面倒になって作品を途中で終わらせてしまう」

とかです。

この没頭する力をつけるには、
やり切る経験をたくさんするしかないと思います。

これもウチの塾の厳しさの一つですが、
僕は生徒に何も要求しない代わりに、
生徒が自分で言った目標に対して取り組み方が釣り合っていなかったら厳しく指摘します。

これは、もちろんプロとして不足があるなら指摘しなければならない、
という理由もありますが、それ以上に
一度手をつけた以上、達成するまで引かないというクセをつけて欲しいからです。

「勉強の仕方がわからない」とかそういうことではなく、
わからないなりにがむしゃらにやればいい。

一度に大きく成績を伸ばせなくても
「漢字だけは満点を取る」
とか
「英単語だけは満点を取る」
とか、限定してもいいです。

学習法の専門家を名乗る人間が、
こういうことを言うのは不自然かもしれませんが、
正しく、効率的なやり方を知っていることよりも
不器用で非効率でも、やり切ろうとする力の方が100倍価値があります。

おわりに ―

主体性、社会性、没頭する力。
3つ挙げました。

そして僕はこれらを“勉強を通して”伝えたいと書きました。

言い換えれば、勉強以外のものを通して得てもいいと思います。
サッカーを通して、
ピアノを通して、
プログラミングを通して、
なんでもいいでしょう。

僕はたまたま勉強が得意だったし、
「受験勉強」という社会的重圧に苦しむ生徒たちの力になりたいという願望があったから塾をやっているだけで、別に必ずしも勉強からこれらを獲得する必要はないと思っています。

あくまで僕は” “勉強を通して伝えたいと思っているだけです。

そして僕はそのサポートが、指導者にできるわずかな貢献だと思っています。

さて、僕の記事はここで終わりです。
当たり前ですが、この記事はあくまで僕の持論です。
冒頭で説明した通り、世代やキャリアが異なれば、考えも異なるでしょう。

僕は一抜け。
あとは気楽に尾村先生、村谷先生の記事を待つことにします。

これを読んでくれた皆さんも、三者三様の記事の「違い」を楽しんで頂けたら幸いです。